▲ 金子みすゞ全集『美しい町』より(JULA出版)
この詩の解釈は、物凄く割れるだろう。
雀の世界と人間の世界は違うのだから、人間界の物差しで雀の世界を測ることはできない。
だが普通は、雀もそうだが子どもが捕まえられてしまったら、母親は激しく鳴くだろう。黙って見ているのは、生き物としてあり得ないケースがほとんどではないだろうか。
黙って見ている、この《雀のかあさん》をどう見るか…?
母との確執
金子みすゞは複雑な生い立ちから、母との関係性をこじらせていると私は観ている。
みすゞは、512編の作中2編で、母を亡き者にしている。
▲共に金子みすゞ全集『美しい町』より(JULA出版)
予備知識が何がなければ、これらの詩から、「みすゞって小さい頃にお母さんを亡くしたのかな」と思うであろう。
みすゞが大正12年、二十歳の時から居候していたのは、母の再婚先である、下関で一番大きな本屋・上山文英堂だ。
そこには、みすゞの弟が幼い頃に養子としてもらわれていた。
その養母は、みすゞの母の妹で、病死したため、ミチは亡き妹の代わりに後添いとなったのだ。
下関に移り住んだみすゞを待っていたのは、町で一番大きな書店のお嬢様というゴージャスな身分ではなく…
店主を「旦那様」、弟のことを「坊ちゃん」、実の母親を「奥様」と呼ばなければならない、女中としての暮らしだった。
一つ屋根の下にありながら心通わぬよりは、離れ離れに暮らしていた寂しさのほうが、ましだったかもしれない。
みすゞは母の詩を多く書いたが、棘や毒を感じるもの多い。
生い立ちから作品を照らすと…
黙っている雀のかあさんが、実の母に重なってならない。
ミチからすれば、商家の女将さんという立場として、してやりたくでもできないことがたくさんあったのだろう。
しかし、二人きりになった時、気持ちがあってもできなくて「ごめんね」と肩を抱くことはできたはず。
そんな瞬間があれば、この詩は生まれなかったのではないだろうか。
喧々諤々
私は、みすゞの詩を声に出して読む《みすゞ塾》をやっているが、塾生たちの声はさまざまだ。
「子どもが捕まえられちゃったんだから、雀の母さんは鳴くべきだ…とかは、私は思わない。心配で心配でハラハラしながら見てるのだと思うから。」
「黙って見ている雀の母さんを責める見方があったとしても、たとえ自分もそう思ってたとしても、その考えは気に入らないので、そう思いたくない!」
etc…
そう、誰も悪気はないのだ。
悪気はない、というのは何と罪深いのだろう…
みすゞはきっと、母の立場を分かっていたと思う。
それだけに私は悲しくてならない。
そして、いかようにもとれるほど言葉を省きながら詩を成立させ、そこに自分の思いを忍び込ませる才能に感嘆し続けている。
深い余白が、読み手の角度を全て受け容れてくれるのだろう。
それは、詩の解らなさであると同時に、魅力でもある。
解らないから、追いかけ続けてしまう。
悪女の顔をしたみすゞの詩に翻弄されるのは楽しい。