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2024/05/31

【みすゞ塾】の余談小屋(?)より、お送りいたします😆

月曜日の塾では、朗読テキスト、金子みすゞの詩5編のうちの1つが『祭のあくる日』でした。





みすゞの生れ故郷・山口県長門市仙崎の北にある青海島に”くじら資料館”があって。


鯨墓の墓銘の読み下し文についての確認で、館長さんにお電話しました。

それについては、長くなるのでまた今度。

館長さんは電話で『祭のあくる日』について、この詩の舞台は青海島だとおっしゃるのです。

みすゞの父の実家の裏には山があるからと。

う~~~ん…あえて反論はしませんでしたが、父の実家は青海島の通という地域で、東のはずれです。

当時、青海島へは渡し舟でした。そこから通までは、子どもの足で歩ける距離ではない。

ということは、別の舟を出してもらわなければ行かれないのです。

みすゞの生い立ちは複雑で、みすゞが三歳になる頃に、父は中国(当時は清)で病没。

それをみすゞの母は「清国の馬賊に殺された」として、無縁墓に入れてしまったのです。

どう考えても、父の没後、父の実家と親しく交流していたとは思えません。

みすゞと兄が、子どもたちだけで、舟まで出してもらって父の実家へ泊りに行っていたとは考えられないのです。

父の実家跡に石碑まで建てたので、そういうことにしたい気持ちは分るのですが😅

館長さんの『かたばみ』という詩についての”当地の見解”は、次に続く🙋


2024/05/27

今日の【みすゞ塾】欠席多く、参加者2人😭


も少し仲間が増えるといいなぁ。

時間がたっぷりあるので、ほぼ余談小屋(?)にお篭りでした

超レアな仙崎土産の香典袋も渡せました。



(香典袋トリビアは ↓)

noteのリンク

金子みすゞが活躍した童謡の大流行のさきがけとなった『赤い鳥』創刊号も見せてあげることができました。


主宰者・鈴木三重吉は、自分に子どもが生まれて創刊を思い立ったのです。

小さい人にこそ、真に芸術的価値ある良いものを、本物をと。

が、その生れたと【すず】という子は、愛人の子なのです。

そして三重吉は、【すず】と同名の子が出てくる『ぽっぽのお手帳』という童話を載せている。


記念すべき創刊号に、我が娘の名を刻みたい気持ちは分るけど、雑誌の私物化・公私混同ですよね。

しかも亡き妻の手前があるからでしょう、何と、【家】が子どもを産む設定なのです。

時間があるので、途中まで朗読してあげちゃいました。

・・・ファイルサイズが大きくて貼り付きません😭動画を短くするにはどしたらいいのかしら💦

とりあえず、インスタにはアップできたので、リンク貼ります💦

『ぽっぽのお手帳』の朗読

「ナイわーーー!!!」というのを塾生も実感。

志に賛同した仲間たちが素晴らしい作品を寄せてくれてるのに、三重吉さん、これはナイっしょ!!!


2024/05/22

【金子みすゞの伝記】には書けないこぼれ話

 執筆中の伝記は、やっと【第4章 女学校時代】を書き終えたところです。

みすゞが女学校3年だった大正7年、その後の童謡大流行のさきがけとなる『赤い鳥』という月刊誌が、鈴木三重吉により創刊されました。

                   


三重吉は、子どもが生まれたのをきっかけに創刊を思い立ったとか。

江戸の流れをくむ、これまでの絵草子のようなものではなく、真の芸術をと。

言ってることは立派だけど、その子どもって、愛人の子なのです。病気の妻がいるのに。

三重吉はDVだったと、下関在住の金子みすゞ研究家・木原豊美さんから聞きました。

何と木原さんは、その愛人”らく”の姪御さんと奇跡のような出逢いがあり、らくさんのお着物を拝借したのです!!!   




木原さんが解説を書かれた『金子みすゞ心の風景』という写真詩集で使われました。


木原さんは、らくさんの姪御さんからDVのことを聞いたのでしょう。

うかがった話の細かい部分は忘れましたが、がっかりしたことだけは鮮烈に覚えています。

「小さい人にこそ良い物を、本物を」という三重吉の志に嘘はないのでしょうが…ざんねーーーん。

伝記には書けないこぼれ話でした。

2024/05/20

【こんな無責任な執筆者が権威って、どんだけー!】

 

この本、マジ酷いわ。

金子みすゞの母の妹・フジの亡くなった年齢と没年が間違ってる。



来週の【OLみすゞ塾】小諸クラスで学習する豆知識の範囲が、ちょうどみすゞの女学校時代で…


私が今執筆している伝記の範囲も、ちょうど女学校時代で…

じゃなかったら、気付けなかったと思う。

長いこと間違ったまま教えてきた塾生たちよ、ほんと申し訳ない!!!

でもさ、あたしが謝る前に、この執筆者が【お詫びと訂正】するべきなんじゃないの?

しかも、間違ってるのココだけじゃないんだよ。

みすゞが女学校に入学した日と卒業の日付が、本文と巻末の年譜では違うし…

同窓会誌『ミサヲ』六号の発行年も、本文と巻末の年譜では違うし…

こういう無責任な方が、権威として金子みすゞ記念館で館長をしています。

JULA出版には、まともな編集者はいないってことね。


2024/05/18

【金子みすゞ まさかの新事実!!!】

 


伝記執筆における取材で先日、生き字引の坂本和磨さんに、書けたところまでの原稿をお渡ししました。

間違いがあってはいけないので。


後日いただいたお電話で、初耳の話が!!!

原稿をチェックしていただいて本当に良かった。

でなければ出てこなかった話です。

綿密な調査を『金子みすゞふたたび』に書いた今野さんも、坂本さんに助けてもらっていましたが…

その時には、まだ判ってなかったのかな、『金子みすゞふたたび』には書いてない。


それとも坂本さん、聞かれなかったから言わなかっただけなのか。

みすゞ自身にはあまり関係ないんだけど、記録は残しておかないとね。

取材を反映させる原稿の手直しで、先へ進めません💦

頑張れ、あたし☆彡

#今野さんが書いた以上のことなど出てこないと思ってたけど #掘り出すと沼だわ


2024/05/16

【金子みすゞの伝記執筆 取材第2弾】

 みすゞが詩に書いた2つのお祭りの取材に行きます。

7月26日が、生れ故郷・山口県長門市仙崎の祇園祭@八坂神社。


7月30日が、命を閉じた下関の夏越祭@亀山八幡宮。



仙崎では、詩に書いた女学校までの道を、もっかい歩こうと思ってる。


前の時は、生き字引の坂本さんのガイドで同行者がいたから、歩くことをちゃんと感じることができなかった💦




何でも、一人で、自力でやらないと身にならないですね。


自力用の地図 ↑

下関でのみすゞの足跡を落とし込んだ地図【お宝】

今日は下関でのアポを2つ取って、どう回るかプランしました。

車がないとどうにもならないんだけど、降りて歩きたい所では、停める場所をどうするか。

仙崎はね、割と自由に停められるけれど、下関は都会だからそういうわけにはいかない💦

みすゞが離婚後、娘を連れて出戻ってた本屋が、自殺後移転したのを知ったのは去年だったか…

今回、初めて行く。

下関は6年ぶり。

みすゞの頃の建物はどんどん消えてゆく

初めて訪ねた25年前は駅前の山陽ホテルも商工会議所もあったのに…

ぎりぎり見られた私はラッキーだった。

夫に病気を移されたみすゞは娘を風呂に入れられなかったの。

親戚に入浴を頼んでいた共同浴場は廃業したけどまだあるのよ。




今日お電話したら、女将さんも旦那さんもお元気そうだった!

同行者に、中を見せていただけることになりました、有り難や。


まだ営業していた頃、二度、お風呂をいただきました。



 奥の扉が開いてるところはサウナでした。

一目で土地の者ではないと分るからでしょう「どちらから?」なんて声をかけられたりして…

熱めのお湯に浸かりながら、みすゞに思いを馳せました🙏


この詩の舞台である光明寺さんも再訪します。


左上が笛を吹いてる天人です。

磨きに出したので金ぴかですが、みすゞが見ていたのは煤けた天人様でした。









2024/05/15

【金子みすゞの詩『ながい夢』について】

 

一昨日の【みすゞ塾】のテキスト5編のうちの一つが『ながい夢』だった。

5行目の【二つ】は、テキトーな数字ではなく、大きな意味がある。

当時の年齢は数えだった。

ということは、みすゞは生まれた明治36年4月11日に1歳、明治37年のお正月で2歳になる。

みすゞが二つの時、兄はいたが、弟はまだ生まれていなかった。

お母さんを独占できた、あの頃に戻りたいと謳っているのだ。

この詩は、結婚前に創られたことが、弟・正祐の手紙で分かっている。

満22歳にならない女性が、これまでの人生を【ながい夢】と言っている。

さらに最後の1行【今度こそ】って、なんだか来世を感じませんか?

まるで辞世の句のような詩です。

そうした時、【いい子になりたいな】が、胸にぶっ刺さるのです。

「いい子になんかならなくていいんだってばーーー!!!」と、バイクの後ろにみすゞを乗っけて、夜の首都高でもぶっ飛ばしたくなるの(バイクの免許ないけど💦😆)。

もし、自分がみすゞの母で、26歳で自殺した娘が、こういう詩を書いているのを知ったら、どんな気持ちがするだろう?

私は、こういう詩を書かせたみすゞの母を恨みそうになることを止められなくて。

みすゞには無邪気な子ども心を謳った詩もたくさんあるけれど、これは彼女にとってすごく特別な位置づけの作品だろうと思う。



この詩について、金子みすゞ記念館の館長であるあの方は、記念館のウェブにこう書いている。

館長コラム

なんだかなぁ…

悲しくなるほど何にも分かっていないのね😢







2024/05/08

【金子みすゞの生れ故郷・仙崎 取材レポート⑨鯨法会の巻】

 今回の取材の1番のミッションは、鯨法会に参列することでした。

みすゞが詩に書いた行事だから。



日本で有数の捕鯨基地だったこの地では、今でも毎年、浄土宗では鯨回向、浄土真宗では鯨法会が営まれている。

            ▲3ヶ寺の持ち回りで今年は西覚寺さん

みすゞは熱心な真宗の門徒だったと言われている。

その回路が自分の中に開かないと、みすゞの心の奥底に降りてゆけないような気がして…

法要の後の御法話は、思わず涙するほど胸に沁みるものだった。



…と思ったのも束の間、金子みすゞについて「夫が酷い人で詩作と詩友との文通を止められ離婚後、酷い夫から娘を守るために自殺」という文脈で方丈様が語り始めたのだ。

「ちーーーがーーーーうーーーーー!!!」と心が叫んでた。

世間のほとんどの人がそう思ってるけど。

権威とされているあの方が『金子みすゞの生涯』という本に、そう書いちゃったから。

でも、違うのですよ!!!

もうほんっとーーーに自説と事実は、ちゃんと区別して欲しい。

アノ本のために、みすゞの元夫側の方々が、どれほどの迷惑を被ったか!!!

ご親族は「ああいう書き方をするのなら事前に見せて欲しかった」とおっしゃってます。

元夫はすでに亡くなってますが、息子さんご夫妻は「死後の人権」について、弁護士に相談したことまであるのです。

もうこれは、人権、人道上の問題だと思います。

反論の場のない者を、一方的に悪者にするなんて!!!

だって、みすゞの娘のふさえさんは、みすゞの死後、紆余曲折を経て、結局元夫が引き受けたのですよ。

ふさえさんにとっては父ですから。

そこには親子としての当たり前の生活があったのです。




【金子みすゞの生れ故郷・仙崎 取材レポート⑧みすゞのお家の後を継いだ本屋さん】

 金子みすゞ記念館の目と鼻の先に、木村聖文堂という本屋さんがありまして。



書店経営に許認可が必要なのかは知りませんが、教科書を扱う権利を継いだという意味だと思います。

記念館に行ったことのある方はお分かりでしょうが、物販コーナーで本を売っています。

記念館で本を売ったら、木村聖文堂さんはどうなるでしょう?

そうです、商売あがったりですよね。

私が館長なら、金子文英堂とのご縁を示して「本のご購入は木村聖文堂で」と、サンプルを置くだけにします。

皆さんなら、どうなさいますか?



レンタカーを借りる時にいただいたドライブマップに、記念館が載ってるのですが…

”文化活動・創作活動を支援する拠点”ですって!!!

ブラックジョーク過ぎるーーー😂😂😂

これが記念館の正体です ↓

一人でも多くの方に知っていただきたいわ。

2024/05/06

【金子みすゞの生れ故郷・仙崎 取材レポート⑦お焼香トリビア】

 焼香って、武士のもので、庶民はしなかったそうな。


で、武家には、”家のお香”があったとか。

庶民も葬儀で”焼香”をするようになったが、”家のお香”はない。

焼香台のお香を借りるので、台に”お香”の借り賃を置くようになったのがお香典なのだそうです。

ガイドの坂本和磨さんに、極楽寺で教わりました。

お寺にお邪魔したらまず、ご本尊さんにお参りしますよね。

私もお線香をあげさせていただき、借り賃として台に100円を置いてきました。



 

極楽寺には、青海島・通(かよい)にある鯨墓の墓銘と同じ鯨位牌があります。

右が元々の、左のは北朝鮮に拿捕された漁師さんが、無事帰ってこられた時に寄進したもの。




極楽寺は、みすゞが詩に書いたお寺です。

 土ざくらは俗称で、学術名は別にある桜があるそうです。これが桜?というような鈴蘭みたいに小さな花が固まって咲きます。

その桜を、お地蔵様の所に植えたけれど枯れてしまったそうな。


 ちょうど八重桜が咲いていました。木が若いので、みすゞが詩に書いた八重桜ではないでしょうが。


 ご挨拶させていただいた木村聖文堂さんでは、香典袋を売っていました!!!

 
お年玉袋を、少し縦長にしたサイズです。

いつ製造中止になるかわからないそうなので、記念に買ってきました。

金子みすゞの詩を声に出して読み合う”みすゞ塾”へのお土産にします。

きっと誰も欲しがらないだろうけどwww

あ、そうそう、木村聖文堂さんは、みすゞのお家がやっていた本屋の権利を継いだと言われています。

たぶん書店経営に許認可はいらないかと思うので、教科書を扱う権利を引き継いだという意味かなと思います。

聖文堂さんについては、明日に続く。


2024/05/05

【金子みすゞの生れ故郷・仙崎 取材レポート⑥堀の名残】

 金子みすゞの家だった所から北へすぐの十字路を、東西に掘通りがある。

名前のとおり、かつて堀があった。

その礎石が残っている。


花崗岩の萩石で、軽くて丈夫なので使われたそうだ。


この十字路を左(西)へ曲がってすぐの所に、仙崎湯があった。


当時はモダンな建物であったと思われる。

半円形の窓の右上、S字型が、かつての入り口にあった電灯

東の浜にあがった漁師たちは、ここで身体を洗って、その先の遊郭へと繰り出して行ったのだ。

仙崎は、1時間もあれば歩いて一周できちゃうぐらいの小さな町です。

その小さな町に、かつては5軒の遊郭がありました。

漁師町として、それぐらい賑わっていたのです。






2024/05/04

【金子みすゞの生れ故郷・仙崎 取材レポート⑤SNOW DRIP編】


隙間時間で寄れたらと顔を出したのですが…💦

時間切れで、珈琲をキャンセルして本当に、ごめんなさい🙏


次に仙崎に行った時には必ず、美味しい珈琲をと思ってます😊


とっても素敵なお店でした!

SNOW DRIP COFFEEのウェブ


今年で3周年だそうです。

ってことは、コロナのど真ん中で開店!!!

インスタで繋がったご縁ですが、地元の皆様のオアシスとして根付いているんだなーと分かって嬉しかったです💝

  


仙崎 取材レポート④に書いた”錦町商店”が閉めてしまったので、センザキッチン以外にお茶できるところがないから、すんごく助かります💛