執筆中の伝記は、やっと【第4章 女学校時代】を書き終えたところです。
みすゞが女学校3年だった大正7年、その後の童謡大流行のさきがけとなる『赤い鳥』という月刊誌が、鈴木三重吉により創刊されました。
三重吉は、子どもが生まれたのをきっかけに創刊を思い立ったとか。
江戸の流れをくむ、これまでの絵草子のようなものではなく、真の芸術をと。
言ってることは立派だけど、その子どもって、愛人の子なのです。病気の妻がいるのに。
三重吉はDVだったと、下関在住の金子みすゞ研究家・木原豊美さんから聞きました。
何と木原さんは、その愛人”らく”の姪御さんと奇跡のような出逢いがあり、らくさんのお着物を拝借したのです!!!
木原さんは、らくさんの姪御さんからDVのことを聞いたのでしょう。
うかがった話の細かい部分は忘れましたが、がっかりしたことだけは鮮烈に覚えています。
「小さい人にこそ良い物を、本物を」という三重吉の志に嘘はないのでしょうが…ざんねーーーん。
伝記には書けないこぼれ話でした。
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