【夏休みのお勉強】
昨日は、盛岡の藤澤陽子さんとランチデート♪月1で、藤田京子先生のヴォイストレーニングで上京しているので。写真を撮り忘れて、ざんねーーーん。
その後は、沖縄を描いた『宝島』で直木賞を受賞した真藤順丈さんのお話を聴きに夏の文学教室へ。 今年のテーマは「越境・往還することば」。
沖縄人ではない者が沖縄を書いていいのか?という、一番越境し難い問題に、やはり立ち往生したそうです。
私も、戦争を知らない本土の人間が、沖縄で沖縄戦の朗読公演をする事において、今もひるむ自分がいます。一番聴きたかった核心に触らせて下さいました。
頭では、いつの時代のどこを描こうと自由だと思っていても、沖縄の方が怒るのでは?おこがましいのでは?という不安や疑問がいっぱいだったそうです。
かたや、外の人間だからこそ提出できる普遍性もあるのではという思いとの間で揺れたとの事。
他の中に自己を見出す、戦果アギャーという主人公に自己を投影して、地面を這いながら腫物に突っ込んでいく、その汗や身体性が作中の青春の向こう見ずさとシンクロするのでは…
戦果アギャーは、米軍基地へと越境して盗んだ戦果を持ち帰り分配する、それは作家の仕事にとても近い。
作家も違う世界に越境し、持ち帰った物語を他者に分配する。
それが出来れば、僕が『宝島』を書いてもいいはず。そしてそれを出来る自信はあった。
他者の中に自分の欠片を見出す、寄り添うのではなく同化していく…それがとても大事なのでは。
真藤さんの言葉に、チムグリサというウチナーグチが浮かびました。
これは、直訳すると「可哀相」になるのでしょうが、全く別物です。あなたが気の毒過ぎて、私のチム(肝・心)は苦しくて苦しくて堪らない…これは、相手と同化しているから湧いてくる感情で。外側から「可哀相」と言うのとは、まったく立ち位置が違う。
まさに真藤さんは越境して沖縄を生き、ことばを往還させたのだなぁと感動しました。
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